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『令和8年度 神原文庫資料展』より

churashi2026

令和8年度(第27回)神原文庫資料展『埋もれていた貴重書 ー紙背文書・断簡・廃棄本ー』より
今回は、「第3部 埋もれていた貴重資料」から、デジタル化している資料を掲載しています。
解説はすべて香川大学教育学部教授の守田逸人先生によるものです。


【趣旨文】(資料展ちらしより)

 神原文庫は、香川大学初代学長神原甚造先生が収集してきた史資料約1万2千点、所蔵本約1万6千冊を超える大コレクションです。収蔵品は、古文書・明治期以降の公文書・刊本書籍・絵画資料・古地図類・雑誌類など多岐にわたり、分野も人文科学・社会科学・自然科学の広範囲にわたっています。収集品は、昭和29年に神原先生が逝去されたのち、本学に寄贈されました。昭和62年にも追加寄贈を受けております。本学では、これまでにも神原文庫収蔵品について定期的に展示を行ってきました。
 今回は、「埋もれていた貴重書」と題して紙背文書や断簡など、価値を見落としそうになる史資料に焦点を当てて丁寧に調査し、重要性が明らかになったものを中心に展示致します。たとえば今回、金沢文庫文書(平成28年国宝指定)の一群から流出した文書も発見されました。
 また、小特集として神原文庫に伝来した様々な「百人一首」に関わる史料も併せて展示致します。

香川大学教育学部教授 守田逸人


■令和8年度(第27回)神原文庫資料展『埋もれていた貴重書 ー紙背文書・断簡・廃棄本ー』
開催日時:令和8年7月7日(火)~7月21日(火) (土・日 休室) ※7月20日(海の日)は開室
展示会場:香川大学図書館3階展示室
主催:香川大学図書館・香川大学大学教育基盤センター
監修:香川大学教育学部教授 守田逸人

【展示関連特別講演会】
開催日時:7月14日(火) 18:00~19:30
講師:香川大学教育学部教授 守田逸人
場所:香川大学 幸町北キャンパス 3号館1階314教室
テーマ:「埋もれていた貴重書」

2026年神原文庫展ちらし・ポスター(PDF)
2026年神原文庫展:出展資料(PDF)


●「神原文庫分類目録」は、「香川大学学術情報リポジトリ」で公開しています。(下記リンク)
https://kagawa-u.repo.nii.ac.jp/search?page=1&size=20&sort=custom_sort&search_type=2&q=1147
 

第3部ー1 長井貞秀書状(紙背文書)

 紙背文書とは、不要となった文書の裏面空白が再利用されて日記・文書・経典などが作成された際、紙背(裏)となった元の文書のこと。紙は貴重なため、反故にした文書の再利用は広く行われた。

 紙背文書として残った本文書は、鎌倉幕府の吏僚長井貞秀が称名寺住持釼阿に充てた書状である。長井貞秀は、父が鎌倉幕府評定衆を務めた長井宗秀、母は北条実時(金沢実時)の娘で、鎌倉幕府北条氏一門金沢氏と密接な関係を持った。京都にも拠点を持ち、兵庫頭などを務めて貴族社会でも活躍した。
 文化人としても著名である。母方祖父の北条実時が開いた金沢文庫には、金沢北条氏や称名寺僧釼阿との書状類が多く遺されており、鎌倉幕府きっての文化人金沢貞顕とも書物の貸し借りなどを繰り返していた。本史料は、書状の内容だけでなく北条氏・称名寺を軸にした背景の人的・社会的関係が窺える点でも大変興味深い。
                                             ※永井晋「長井貞秀の研究」(『金沢文庫研究』315、2005年)参照

 書状の内容は、今朝覚園寺にて六字護摩の法会を行ったとの報告を受け、悦んでいる意思を伝えている。覚園寺は現在も鎌倉二階堂に所在するやはり北条氏ゆかりの寺院であり、鎌倉幕府関係者の宗教行事のあり方を示している。

 釼阿・称名寺・金沢文庫と史料の伝来について

 今回、本史料は金沢文庫(称名寺)流出文書であることが判明した。展示部分の長井貞秀書状については、明治18年に東京大学史料編纂所が称名寺所蔵文書(模写本)を調査した折、複製本(影写本)を作成していている。すなわち、少なくとも明治18年頃までは称名寺に所蔵されていたことがわかる。

 釼阿は、金沢称名寺住持を務めた鎌倉時代後期の著名な僧であり、書写した聖教をはじめ多くの著作を称名寺に遺した。称名寺は、文永4年(1267)鎌倉幕府要職を占めた北条実時の創建にかかり、境内には同じく北条実時が設けた日本最古の武家文庫である金沢文庫があった。金沢文庫は、昭和5年より神奈川県立金沢文庫として継承され、称名寺に伝来した史料を所蔵・研究する機関となっている。金沢文庫所蔵文書は、日本中世の社会動向を伝える極めて貴重な史料群として平成28年に国宝指定された。 

-本史料の構成・内容についてー

 本史料の構成は複雑である。まず、展示面の書状に「裏面を用いて候」とあるように、長井貞秀は自身の元に届いた書状(礼紙)の裏面を利用して返信したことがわかる。別掲の本来の表面画像に「小松兵庫殿、釼阿」とあるように、彼の元に届いた書状とは称名寺僧釼阿から送られたものとわかる。釼阿は2紙以上にわたって書状をしたためたと思われ、そのうち包紙となったこの紙(礼紙)の裏面を利用して書状を記し釼阿へ返信した。そして釼阿は、貞秀からのこの返信をさらに反故紙として「瑜祗経昏地心品菩薩心論秘鈔一巻」(聖教)の書写に利用した。

 ところで、現在金沢文庫所蔵の釼阿書写にかかる聖教類を参考にすると、釼阿のもとに集められた反故紙は、整形され霧吹き等で湿らせて皺を延ばし、多くは重ねて保管されていたという。本史料にも斯様に反故紙が重ねて保管された際に映り込んだと考えられる他の文書の墨映がみられる。
                                 前田元重・福島金治『「宝寿抄」紙背文書について』(『金沢文庫研究』270号、1983)参照

 墨映は、肉眼では「六波羅殿のこと、いか々」と一行目まで判読できる。その後も墨映らしきものがみえるものの、判読が難しい。画像処理技術を駆使した判読が期待される。「六波羅殿」とは、言うまでもなく六波羅探題を務めた北条氏を指す。

[書状]

ショジョウ

表・裏

●『瑜祗経昏地心品菩薩心論秘鈔一巻』 1紙(表)
●(紙背文書)『長井貞秀書状』 (延慶元年〈1308〉?)金沢文庫(称名寺)流出文書(裏)

※『神原文庫目録(続)』(78頁,古文書№85)には「[書状]九州(細川)興元 小松兵庫元政宛(端裏) 十月十五日 細川 御宿所宛 32x48cm 1通 」と記載。

第3部ー2 東大寺衆徒等解(げ)(土代)

 古代国家の行政制度を規定した「令」において、「解」は上下関係にある役所間で下の役所から上の役所に上申する文書様式とされた。平安期以降、解の系譜を引きつつ若干の様式変化がなされ、「解文」・「解状」などと呼ばれて寺社や個人対個人等の上申に際しても用いられるようになった。
 本文書は、東大寺八幡宮(手向山八幡宮)再興について、東大寺衆徒等が鎌倉幕府将軍家政所に対して求めた解状の土代(草案)である。紙背文書には、東大寺領丹波国後河荘の荘官と思われる人物からの書状がある。やはり、東大寺からの流出文書であろう。
 なお、鎌倉時代の東大寺八幡宮に関する史料はほとんど残されていないため、関係史料の博捜と共に、本文書の詳細な検討が必要となっている。
 

東大寺衆徒等解

トウダイジ シュトラ ノ ゲ

●「東大寺衆徒等解文土代(断簡)」(承久3年〈1192〉月日未詳)

※『神原文庫目録(続)』(77頁,古文書№71)には「『東大寺衆徒客解申請申文事』[室町期]31×99cmと」記載。

東大寺衆徒等解

トウダイジ シュトラ ノ ゲ

『東大寺衆徒等解文土代』の紙背文書です。
●「丹波国後河荘解」1紙 (年未詳(鎌倉時代)7月19日)1紙

※『神原文庫目録(続)』(78頁,古文書№93)には「[書状](七一裏文書)[室町期]」と記載。

第3部ー3 後嵯峨上皇ヵ院宣(いんぜん)(紙背文書)

 後嵯峨上皇から東大寺へ下された院宣である。院宣とは、上皇の意思を院司が承けて筆を執り、発給するもので、格式の高い文書様式である。充所の「民部卿律師(みんぶきようりつし)」は東大寺別当や寺内の有力院家尊勝院主も務め、仏典に巻する多くの注釈書を執筆した僧宗性である。内容は、東大寺末寺観世音寺負担分の伊勢神宮遷宮費用について上皇が東大寺へ催促する内容となっている。
 なお、本文書は2018年の神原文庫資料展でも出展した。その際は「後日の控えとして写した案文であろう。」としたものの、宗性上人の著作を調べると、明らかに院宣原本を多く反故紙として利用している。本文書もただちに後日の控えとは言えず、むしろ原本の可能性が高い。本文書を執筆した院司とその筆蹟も詳らかになっておらず、後考を俟ちたい。

[東大寺領観世音寺造宮土木事]

トウダイジリョウ カンゼオンジ ゾウグウ ドボク ノ コト

●「東大寺衆徒等解文土代」(断簡) (承久3年〈1192〉月日未詳)

※『神原文庫目録(続)』(77頁,古文書№69)には「[東大寺領観世音寺造宮土木事] 七月二十九日□民部卿律師 御房宛 31×40cm」と記載

[東大寺領観世音寺造宮土木事]

トウダイジリョウ カンゼオンジ ゾウグウ ドボク ノ コト

「東大寺衆徒等解文土代(断簡)」の紙背文書です。
●「後高倉上皇院宣」 1紙  鎌倉時代 (年未詳7月29日)(紙背文書)

※『神原文庫目録(続)』(77頁,古文書№70)には「[寄進解文案](六九裏文書)」と記載

第3部ー4 某書状(紙背文書)

 仏典注釈書(勝鬘経の注釈カ)の紙背として遺された文書である。料紙を再利用するにあたって裁断されており、書状の書き手や宛所も不明であるが、記述の内容が極めて興味深い。
 「去々年南都滅亡」とは東大寺・興福寺が炎上した平家による治承4年(1180)南都焼き討ちのことである。さらにここでは、東大寺の有力院家である尊勝院が同じく消失したこと、またその復旧のために「観音寺辺旧堂一宇」を壊して奈良に下すことなどが記されている。本文書は、もともと東大寺尊勝院あるいはそれと密接に関わるところに伝わっていた可能性が高い。
 東大寺再建の折には周防国(現山口県)から巨材が搬出されたことはよく知られているが、当然様々な各所から資材が運ばれた。しかし、本文書に見られるような旧堂を利用した復興した事例などは知られてあまりおらず、今後の研究の深化が期待される。

[経文解]

キョウモンゲ

●(仏典注釈書)

・※『神原文庫目録(続)』(77頁,古文書№72)には「[経文解]」(断簡)[室町期] 30x50cm 」と記載。

[経文解]

キョウモンゲ

「[経文解]」の紙背文書です。
●「某聖教断簡紙背」(鎌倉時代)某書状 1紙(紙背文書)

※『神原文庫目録(続)』(78頁,古文書№94)には「[書状](七二裏文書)[室町期]」 と記載。

第3部ー5 興福寺領大和国吐山荘請文(うけぶみ)(土代)

 請文とは、ある事柄を履行した事実や将来これから履行すべきことを相手方に伝える文書である。
 大和国吐山荘(現奈良県山辺郡都祁村大字吐山一帯)から荘園領主興福寺関係者へ宛てる請文の土代(草案)であり、したがって本文書は興福寺から流出したものと考えられる。
 ここでは、南北朝内乱の影響で大和国中が動乱となっている状況が記され、そうした非常時での年貢の確保や地域の秩序維持に関する取り決めについて、荘園領主興福寺に対して承諾する内容となっている。南北朝内乱期の地域社会の動向を示す重要な史料である。
 本文書は吐山荘現地側で作成された土代ではなく、おそらく荘園領主である興福寺側であらかじめ作成された可能性が高い。興福寺側が有事体制を土代を作成して現地側に提案し、その受け入れを約束する請文が現地から興福寺へと提出される手順をとったと思われる。

請申出山庄事

ウケモウス デヤマショウ ノ コト

裏・表 (興福寺流出文書) 

●「興福寺領大和国吐山荘請文」(土代)(康永元年〈1342〉)9月15日 1紙 【『続目録』古文書:(1)9】(表) 
●(裏文書 建武四年二月十一日 経治書状)

『神原文庫目録(続)』(75頁,古文書№9)では「請申出山庄事 康永元年九月十五日 □□ (裏文書 建武四年二月十一日 経治書状) 32x49cm」と記載。

第3部ー6 興福寺僧沙門奘遍勘文

 本文書は、11世紀後半以降の興福寺・多武峰による紛争について興福寺僧奘遍がまとめたものであり、したがって興福寺から流出した文書であろう。
 興福寺と多武峰は、中世を通じ長期にわたって紛争を繰り返していた。ここでしか知ることの出来ない記述もある点で貴重である。興福寺流出文書である
 本文書には、すべての料紙に紙背文書がある。

[沙門奘遍勘文]

シャモン ショウヘン カンモン

●興福寺僧沙門奘遍勘文 応長2年(1312) 興福寺流出文書 1紙【『神原文庫目録続』(1)6】

※『神原文庫目録(続)』(75頁;古文書№6)には「[沙門奘遍勘文]干時正和元年十月十一日 沙門奘遍(自筆) (裏文書 忍長御房・奘遍宛書状,奘遍諷誦文他) 紙高29cm」と記載。