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令和6年度 神原文庫資料展

資料展S
令和6年度(第26回)神原文庫資料展『神原文庫の古文書』

過去に開催された令和6年度(第26回)神原文庫資料展の展示資料を一部ピックアップし、紹介します。
※第1部、第2部の資料はデジタル化が完了していないため非公開としています。


《ごあいさつ》資料展ポスターより

 神原文庫は、香川大学初代学長神原甚造先生が収集してきた史資料約1万2千点、所蔵本約1万6千冊を超える大コレクションです。コレクションの成立は、明治・大正・昭和初期に日本の多くの文化財が史上最大規模で市中に流出し、古書肆界(こしょしかい)が極めて活況であったことと密接な関係があります。コレクションは、昭和29年に神原先生が逝去された後、本学に寄贈されました。本学では、これまでにも神原文庫収蔵品について、定期的に展示を行ってきました。
 神原甚造先生は、明治17年(1884)に多度津で生まれ、丸亀中学・第三高等学校・京都帝国大学を卒業後、京都地裁判事などを経て、大正14年(1924)には現在の最高裁に相当する大審院で判事を務めました。法曹界の最前線で活躍したのちの昭和25年(1950)、65歳で本学初代学長に就きました。
神原文庫の収蔵品は、古文書・明治期以降の公文書・刊本書籍・絵画資料・古地図類・雑誌類、また神原先生自身の著作や携わった裁判関係資料などからなり、分野も人文科学・社会科学・自然科学から芸術に至るまで広い範囲にわたっています。
 今回の展示では、「神原文庫の古文書」と題し、神原文庫収蔵品のうちから東大寺旧蔵文書や島津家関係文書など、とりわけ貴重な古文書を中心に紹介するとともに、それらが収集された背景をみながら神原文庫の成り立ちと神原先生の人物像にも迫っていきます。内容豊かな古文書の世界を御覧下さい。

 香川大学教育学部教授 守田逸人


■令和6年度(第26回)神原文庫資料展『神原文庫の古文書』
開催日時:令和6年7月9日(火)~7月23日(火)
展示会場:香川大学図書館3階展示室
主催:香川大学図書館・香川大学大学教育基盤センター
監修:香川大学教育学部教授 守田逸人

令和6年度第26回神原文庫資料展および展示関連特別公演ポスター (PDF)

神原文庫の古文書 出展品リストと略解説.pdf

【特別講演会】
開催日時:7月16日(火)16:40~18:10
講師:香川大学教育学部教授 守田逸人
場所:幸町北キャンパス 3号館3階 331教室
テーマ:神原文庫の古文書

【第3部-1】皇室・朝廷・公家が発給した文書

[山階高殿庄譲状]

ヤマシナ タカドノ ノ ショウ ユズリジョウ

①室町院(暉子内親王)大和国高殿荘譲状(礼紙) 正安2 年(1300)4 月20 日1 紙
【『続目録』古文書:(1)4】

[山階高殿庄譲状]

ヤマシナ タカドノ ノ ショウ ユズリジョウ

②室町院(暉子内親王)大和国高殿荘譲状(礼紙) 正安2 年(1300)4 月19 日1 紙
【『続目録』古文書:(1)5】
譲状とは、所領や資材などを譲渡する際に譲渡者が作成して被譲渡者に与える文書のこと。大和国高殿荘(現奈良県橿原市高殿町一帯)は、後堀河天皇皇女室町院(暉子内親王)領で、筆の主は室町院である。室町院は、この年の5 月3 日に73 歳で薨去している。したがって展示品は、臨終の直前にしたためられたものである。

[近衛信尹懐紙書状]

コノエ ノブタダ カイシ ショジョウ

③近衛信尹書状(江戸時代初頭)10 日1 紙
【『続目録』911.16/15】
近衛信尹は安土桃山時代から江戸時代初期にかけての公卿である。本阿彌光悦、松花堂昭乗とならんで寛永の三筆と称された。宛所の「大門主」は不明。

[賀茂氏演宜叙従五位下宣旨]

カモウジエン ジュウゴイゲ ニ ヨロシク ジョスル センジ

④霊元天皇口宣案(宿紙) 寛文12 年(1672)12 月22 日1 紙
【『続目録』古文書:(1)268】
口宣案とは、天皇が口頭で任命を行う「口宣」を、天皇の側近である蔵人が後日の顕のために文書にしたものである。後日の控えとして書写した文書を、「案」、または「案文」といった。本文書は、賀茂県主氏演を従五位下に叙した(任命)口宣案である。賀茂県主は、代々京都の賀茂神社に奉斎した氏族である。

【第3部-2】武家政権が発給した文書

[書状]

ショジョウ

①室町幕府奉行人連署奉書 永正 2 年(1505)6 月 2 日 1 紙(折紙) 
【『続目録』古文書:(1)21】
室町幕府では、14 世紀後半頃から将軍の決定事項を配下の奉行人2名がとりまとめて文書にして発給するケースが多くなっていく。本文書の内容は、現在にまで続く祇園祭の山鉾渡御の経費出資をめぐって起こった相論に対して室町幕府が裁決した文書である。

[書状]

ショジョウ

②.室町幕府13代将軍足利義輝書状 (戦国時代)年未詳 11 月 16 日 1 紙
【『続目録』古文書:(17)書状等 1010】
花押から室町幕府 13 代将軍足利義輝の書状であると判断される。内容は駿河国へ(武田)信虎が下国することをうけて、水野山城守に道中の世話を命じている。

京都町中可令触知条々

キョウト チョウチュウ フレ シラシムベク ノ ジョウジョウ

③京都所司代板倉重宗町中触書元和8 年(1622)8 月20 日6 紙
【『続目録』古文書:(1)51】
統一武家政権が誕生して間もなく整備された京都市中の法度。近世初頭の京都市中法度は、本文書の元和8年11 月の9 箇条の他、同年11 月13 日「京都可相触条々」(7 箇条)、寛永6 年(1629)10 月18 日「京都可相触条々」(5 箇条)と併せて「板倉二十一箇条」と呼ばれた。

[將軍家光朱印状]

ショウグン イエミツ シュインジョウ

④江戸幕府3代将軍徳川家光朱印状慶安元年(1648)1 紙
【『続目録』古文書:(5)293】
常陸国筑波郡吉田村熊野権現・鹿島明神に対し、同村分三石を寄付すること、別当寺光蔵院寺中の竹木所役の免除を命じている。神原文庫には、本文書をはじめ江戸幕府将軍の朱印状・判物が14 点確認できる。

武家諸法度

ブケ ショハット

⑤武家諸法度(宝永令) 宝永7 年(1710) 4 月15 日7 紙(写)
【『続目録』322.15/8】
武家諸法度は江戸幕府の基本法規の一つ。短期に終った徳川家継(7 代)と慶喜(15 代)を除き、代々の将軍は就任後に諸大名に公示した。展示品の宝永令は家宣(6 代)が発布したもので、17 箇条にわたる。起草者は儒者新井白石である。本文書は、料紙の付箋や添付された由緒書から備前藩池田家に伝わった写しと考えられ、料紙には大高檀紙が使われている。

【第3部-3】武士のイエに伝わった文書

[沙弥法佛着到状]

シャミ ホウブツ チャクトウジョウ

①沙弥法佛着到状建武3 年(1336)4 月25 日1 紙
【『続目録』古文書:(1)7】
島津家に従った郷士延時氏の旧蔵にかかる古文書で、延時家は薩摩国薩摩郡延時名(現鹿児島県川内市)を根拠地とした。本文書の内容は南北朝内乱に関係したもので、後醍醐方武士肝付兼重を討つため、延時法仏(忠種)が島津貞久(足利尊氏方大将、薩摩・大隅両国守護)のもとに参陣した際に提出した着到状である。

[畠山直顕感状]

ハタケヤマ ナオアキ カンジョウ

②畠山直顕感状文和元年(1352)12 月25 日1 紙
【『続目録』古文書:(1)10】
島津氏に従った得丸家に伝わった文書である。得丸家は、大隅国姶良荘内得丸名(現鹿児島県鹿屋市吾平町)を根拠地とした武士である。神原文庫には後掲の③・④とともに3 点の得丸家文書が伝わっている。本文書の内容は、日向国の国大将(のち日向国守護)であった畠山直顕が徳丸六郎五郎の軍忠を賞した文書である。こうした文書を「感状」といった。

[島津孝久安堵状]

シマズ タカヒサ アンドジョウ

③島津孝久宛行状嘉慶3 年(1389)6 月19 日1 紙
【『続目録』古文書:(1)15】
大隅国守護島津孝久(のち元久と改名)が大隅国姶良荘内得丸名内の田を得丸但馬入道に給付した文書である。こうした文書を「宛行状」といった。

[島津久豊知行宛行状]

シマズ ヒサトヨ チギョウ アテガイジョウ

④島津久豊知行宛行状応永18 年(1411)12 月28 日1 紙
【『続目録』古文書:(1)16】
島津孝久(元久)の跡を継いだ島津久豊が姶良荘内の田を給付した宛行状である。宛所が擦り切れているが、得丸氏であると考えられる。

加冠

カカン

⑤毛利輝元加冠状天正14 年(1586)6 月18 日1 紙
【『続目録』古文書:(1)30】
大名である毛利輝元が家臣の三戸藤三の元服を認めた加冠状である。三戸家は毛利家に使えた武士で、神原文庫には同家に伝わった中世文書10 点、近世の由緒書1 点を所蔵している。

【第3部-4】寺院関係の文書

東大寺衆徒客解申請申文事

トウダイジ シュト キャクゲ モウシウケ モウス フミ ノ コト

①東大寺衆徒等解(土代) 建久3 年(1192) 1 紙
【『続目録』古文書:(1)71】
東大寺八幡宮(手向山八幡宮)再興のため、「将軍」に就いたばかりの源頼朝に対して保護を求めた東大寺衆徒等による解状の土代(草案)である。本文書は、紙背の書状(この類の文書を紙背文書という)が用済みとなったためその裏面を再利用して作成されたものである。

請申出山庄事

ウケモウス デヤマショウ ノ コト

②興福寺領大和国吐山荘請文(土代) 康永元年(1342)9 月15 日1 紙
【『続目録』古文書:(1)9】
大和国吐山荘(現奈良県山辺郡都祁村大字吐山一帯)から荘園領主興福寺関係者へ宛てる請文の土代(草案)である。ここでは、南北朝内乱の影響で大和国中が動乱となっている状況が記され、そうした非常時での年貢の確保や地域の秩序維持に関する取り決めについて、荘園領主興福寺に対して承諾する内容となっている。

[沙門奘遍勘文]

シャモン ショウヘン カンモン

③興福寺僧奘遍諷誦文(紙背文書) 応長2 年(1312) 1 紙
【『続目録』古文書:(1)6】
本文書の表面には、興福寺僧奘遍が興福寺と多武峰による紛争の記録がまとめられている。興福寺と多武峰は、中世を通じて紛争を繰り返しており、ここでしか知ることの出来ない記述もある。本文書には、すべての料紙に紙背文書があり、今回の展示で示した部分は、奘遍自身がしたためた諷誦文である。